和尚のひとりごとNo170
御法語第九 安心
~まことの心こそが往生の正因である~
【原文】
念仏の行者の存じ候(そうろ)うべき様(よう)は、後世(ごせ)を恐れ、往生を願いて念仏すれば、終るとき必ず来迎(らいこう)せさせ給うよしを存じて、念仏申すより外(ほか)のこと候わず。
三心(さんじん)と申し候うも、ふさねて申す時は、ただ一つの願心(がんしん)にて候うなり。その願う心の偽らず、飾らぬ方をば、至誠心(しじょうしん)と申し候。この心のまことにて、念仏すれば臨終に来迎すということを、一念も疑わぬ方を、深心(じんしん)とは申し候。この上、我が身も彼(か)の土(ど)へ生まれんと欲(おも)い、行業(ぎょうごう)をも往生のためと向くるを、廻向心(えこうしん)とは申し候うなり。
この故に、願う心偽らずして、げに往生せんと思い候えば、自ずから三心は具足することにて候うなり。
(『勅伝 第二十四巻』)
【ことばの説明】
安心(あんじん)
安心とは詳しくは、「心念を安置すること」を指し、修行によって得られる心の安定した状態を意味する。
浄土教においては、阿弥陀仏の本願に誓われた念仏によって、凡夫の散乱する心のままで決定往生の確信を得ること、そのことを安心と呼ぶ。
また浄土宗では安心とは、所依の『観無量寿経』に説かれる「三心(さんじん)」であるとしている。三心とは、阿弥陀仏の浄土に往生する者が持つべき三種の心構えのことで、至誠心(しじょうしん)、深心(じんしん)、廻向発願心(えこうほつがんしん)を指す。
「『観無量寿経』に説いていわく〈もし衆生ありてかの国に生れんと願ずる者は三種の心を発してすなわち往生すべし。何等をか三つとす。一つには至誠心、二つには深心、三つには廻向発願心なり。三心を具する者は必ずかの国に生れる〉と(法然『浄土宗略抄』)」
第一に至誠心とは、身口意の三業(全ての行為や発言や思い)が必ず真実の心にて行われるべき事。
第二に深心とは深く信ずる心であるが、具体的には自分自身が煩悩を具えた凡夫であり、実践できる善き行いは少なく、このままでは輪廻から抜け出る事が難しい、それが故に阿弥陀仏の本願に誓われた念仏により必ず往生を遂げる事ができると信じ疑い無き事を言う。
第三に廻向発願心とは、所修の功徳(自ら為した様々な行いの功徳)を浄土往生という一事にふり向けて往生を願う心の事。
善導大師によれば、この三心を具足する事が往生浄土の条件とされたが、法然上人によれば、称名念仏を実践する中で三心は自ずと具わってくるとされる。「三心四修と申すことの候うは、皆 決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちに こもり候うなり(一枚起請文)」。
さらに、浄土宗第七祖聖冏(しょうげい)禅師の『伝通記糅鈔(でんずうきにゅうしょう)』によれば「念を所求所帰去行の三に置くを安心と云うなり」と言い、所求所帰去行(しょぐ しょき こぎょう)の三つに心を定めることを安心と定義している。
「所求所帰去行」とは、浄土宗の信仰や教行における三要素であり、目的(所求)と対象(所帰)と実践(去行)を指す。それぞれ所求(信仰の目的)は往生浄土(浄土に往生すること)、所帰(信仰の対象)は阿弥陀仏、去行(信仰の実践)は本願念仏であるとされている。
後世(ごせ)
三世(前世、現世、来世)の一つ来世の事。今世での生を終えたのち、生まれかわりを果たした次の生存。
これを「恐れる」とは、次の世において再び迷いの境遇に生まれついてしまう事を危惧して、という意味。
来迎(らいこう)
臨終を迎えた念仏行者のもとに、阿弥陀仏が聖衆とともに迎えに来ること。すなわち浄土宗では来迎とは臨終来迎を指す。
これは『無量寿経』に説かれる四十八願中の第十九「来迎引接願」に基づき、また『阿弥陀経』には「その人命終の時に臨んで、阿弥陀仏、諸もろの聖衆とともに、現にその前に在まします」とある。
なお「らいごう」と読む宗派もあるが、浄土宗では「らいこう」と読み慣わす。
ふさねて
「かさねて」の意味。
至誠心(しじょうしん)
深心(じんしん)
上記安心を参照。
行業(ぎょうごう)
身・口・意の三業の所作。つまりあらゆる行い。
廻向心(えこうしん)
廻向発願心のこと。上記安心を参照。
【現代語訳】
念仏を行ずる者が心得ておくべき事は、(自らの)来世(の生まれ変わりにおける苦しみ)を案じ、(浄土への)往生を願って念仏すれば、(命が)尽きようとするその瞬間に必ず(阿弥陀仏並びに聖衆)が迎えて下さると信じて、念仏を称える事に他ならない。
三心(という往生に必要な心構え)というものも、要するに、ただ一つの(往生を)願う心以外のものではない。その願う心に偽りがなく、表面のみを取り繕うこともない点を「至誠心」と呼ぶのである。この心が真(まこと)から出た心であり、念仏を行えば命終わる時に(阿弥陀仏が)迎えに来て下さるという事を、微塵も疑わない点を「深心」と呼ぶのである。さらに、(まさに)私自身が彼の浄土(西方極楽浄土)へ生まれようと望み、(自ら為した)あらゆる善き行いを往生の為にこそ振り向ける事を「廻向心」と呼ぶのである。
以上のように、(往生を)願う心に嘘偽りがなく、心の底から往生したいと思えば、おのずと(往生の条件とされる)三心が備わってくるのである。
善導大師は三心こそが往生を遂げるための正因であるとし、この三心を具足した称名念仏を勧めた。三心とは一言で言えば「まことの心」であるが、心から阿弥陀仏を信じ、その浄土への往生を願い、常に心がそこから離れないことが求められる。
しかしながら私たちは紛うかたなき凡夫である。常に心が動じ、留まる事を知らず、「凡夫の心は物にしたがいてうつりやすし。たとえば猿猴(サル)の、枝につたうがごとし。まことに散乱して動じやすく、一心しずまりがたし」と表現される。
そんな私たちにとり、心を常に弥陀如来に寄せ、極楽往生を願う心を持続する事がいかに困難であるか。
法然上人は善導大師の心を汲み、そして仏の慈悲心を受け止めて、こう結論するのである。
難しく考える必要はない、念仏を称え続ければ、必ずまことの心である三心が自ずと具わってくるのだと。
合掌