徳川家康と浄土宗の関係は、徳川家が三河で松平性を名乗っていた時代まで遡ります。
特に松平家4代目親忠(ちかただ)は信仰心が篤く(あつ)、大樹寺(浄土宗寺院 愛知県岡崎市)を創建されました。また、御子息のなかには出家される方もおられました。(知恩院第25世超譽存牛上人)
松平家9代目が家康公です。家康公が浄土宗の教えに信仰篤くなったのは、「桶狭間の合戦」の時だと言われています。
「桶狭間の合戦」で今川家が敗れ、自身も危なくなった時、大樹寺に身をよせてかくまってもらいました。そのおりに、住職の登譽上人の教えを授かり、「五重相伝」も受けられました。
それ以後、「厭離穢土 欣求浄土」(えんりえど ごんぐじょうど)の文字を旗印にされ、「白本尊」「黒本尊」と呼ばれる二体の「阿弥陀佛像」を自身の「念持佛」にされました。
家康公が熱心に信仰されていたことは、「日課念仏」に一日6万遍のお念仏を称えていたといわれています。また「南無阿弥陀佛」の名号を書き記した「日課念仏本紙」が数多く残っています。
徳川家康公の本や物語は多くあります。家康公の浄土宗への信仰の篤さを加えて読んでみれば、違った一面が見えてくるかもしれません。
※念持仏 「守り本尊」とも呼ばれ、その人を一生涯護り続けて下さる仏様のことです。
※「厭離穢土 欣求浄土」「白本尊」「黒本尊」については「和尚のひとりごと85」にてご紹介させていただきます。