和尚のひとりごとNo199
和尚のひとりごとNo199「法然上人御法語第十八」
前篇 第18 自身安穏(じしんあんのん)
~念仏が肝要~
【原文】
現世(げんぜ)を過(す)ぐべき様(よう)は、念仏の申(もう)されん方(かた)によりて過ぐべし。念仏の障(さわ)りになりぬべからん事をば厭い捨(す)つべし。
一所(いっしょ)にて申(もう)されずば、修行して申(もう)すべし。修行して申されずば、一所に住(じゅう)して申すべし。聖(ひじ)りて申されずば、在家(ざいけ)になりて申すべし。在家にて申されずば、遁世(とんせ)して申すべし。
一人籠(こも)り居(い)て申されずば、同行(どうぎょう)と共行(ぐうぎょう)して申すべし。共行して申されずば、一人籠り居て申すべし。衣食(えじき)叶(かな)わずして申されずば、他人に助けられて申すべし。他人の助けにて申されずば、自力(じりき)にて申すべし。
妻子(さいし)も従類(じゅうるい)も、自身(じしん)助けられて、念仏申(もう)さんためなり。念仏の障りになるべくば、ゆめゆめ持つべからず。所知(しょち)所領(しょりょう)も、念仏の助業(じょごう)ならば大切なり。妨(さまた)げにならば、持つべからず。
惣(そう)じてこれを言わば、自身安穏(あんのん)にして念仏往生を遂げんがためには、何事もみな念仏の助業なり。
三途(さんず)に還るべきことをする身(み)をだにも、捨て難(がた)ければ、顧(かえり)み育(はぐく)むぞかし。まして往生すべき念仏申(もう)さん身(み)をば、いかにも育みもてなすべし。
念仏の助業ならずして、今生(こんじょう)のために身をを貪求(とんぐ)するは、三悪道(さんなくどう)の業(ごう)となる。往生極楽のために自身を貪求するは、往生の助業となるなり。
(勅伝第45巻)
【ことばの説明】
現世(げんぜ)
この世で現に受けている生のこと。今生(こんじょう)。
仏教で用いる場合には大きく二つの意味がある。
一つは現在の瞬間(一刹那 いっせつな)のこと。『阿毘達磨俱舎論(あびだつまくしゃろん)』によれば存在の構成要素であり、実在であるところの法(ダルマ)を時間的様態において分類する際に、その法が未だ生じていない様態を未来世、現に生じている様態を現在世(現世)、既に生じ終って滅してしまった様態を過去世とする。『俱舎論』に描かれる説一切有部の世界観では、法は三世に亘って実在するが、未だ顕在化していない状態から一瞬だけ顕在化し、またすぐに潜在的な状態に移行すると考える。つまり生じては滅することを繰り返す法の様態を三世に分類しているのであって、それ以外に実体的な範疇としての時間を認めている訳ではない。
もう一つは今生を意味する場合で、前際(前世)、中際(現世)、後際(来世)の三際(三世)を数える。この場合は輪廻説との関連で、今生で生を受けたこの身を含めて、すべて前際(前世)になしてきた業の報いであり、また中際(現世)の業の報いを同じ中際(現世)、もしくは後際(来世)で受けると考える。このうち、中際(現世)の善なる業(善き行い)の報いとして楽なる果を得ることを現世利益(げんぜりやく)と呼んでいる。
聖(ひじ)りて/遁世(とんせ)して
聖(ひじり)とは一般的には高徳の僧侶のことを指すが、もともとは仏教伝来以前から我国で活動していた民間の宗教者・呪術者のことを指していた。仏教伝来以降、奈良時代から平安時代にかけて、寺院に定住せず諸国を遊行(ゆぎょう)したり、山林に入って修行する隠遁的な行者を指す総称となり、浄土信仰を民間に広めるのに功績が認められる念仏聖や、弘法大師信仰を全国に普及させた高野聖がよく知られている。
ここでは「遁世(とんせ)」とパラレルであり、寺院に住する官僚としての僧侶ではなく、まさに法然上人がそうであったように、隠遁して道を求める求道者のイメージで語られている。鎌倉時代中期の仏教説話集である『沙石集(しゃせきしゅう)』では、妻帯せず家庭を持たない独身を指す言葉として「ひじる(ひじりらしく振舞う)」という表現が登場する。
従類(じゅうるい)
一族、眷属(けんぞく)、親類縁者のこと。
三途(さんず)/三悪道(さんあくどう)
亡者が赴くべき三つの場所である火途(かず)・血途(けつず)・刀途(とうず)の総称。「火途」とは猛火に焼かれる苦しみのある場所、「血途」とは互いに貪り合う苦しみのある場所、「刀途」とは刀剣で強迫される苦しみのある場所のことで、それぞれ六道の中の地獄道・畜生道・餓鬼道あたる。三悪道ともいう。
【現代語訳】
この身を与えられた今生の世の過ごし方としては、念仏を申し易いように過ごすべきです。念仏を邪魔する様な要因は、厭い捨て去るべきです。
もし一ヵ所に留まり念仏することが出来ないのであれば、諸国を行脚(あんぎゃ)して称えなさい。行脚して称えることが出来ないのであれば、一ヵ所に留まって念仏しなさい。俗世を離れ道を求める中で称えられないのであれば、在家の身となって称えなさい。在家の身にて称えられないのであれば、俗世を離れ道を求める中で称えなさい。
独り籠って称えられなければ、志(こころざし)同じく道を共に歩む者たちと励まし合って称えなさい。仲間たちと称えられなければ、独り籠って称えなさい。(念仏を称えることで)自力で衣食などの生計を立てることが出来なければ、他人の助けに頼って称えなさい。他人の助けに頼ってでは称えられなければ、自力で生計を立てながら称えなさい。
妻を迎え子を授かるのも、親類縁者たちも、全て自分自身がそれによって支えられて念仏を称えられるようになる為にあるのです。念仏の妨げとなるのであれば、決して持つべきではありません。領地ももしそれが念仏の行を支えることに役立つならば大切です。念仏の妨げとなるのであれば、持つべきではありません。
要するに、自分自身が無事息災である穏やかな暮らしを送りながら、念仏による往生を果たす為には、念仏以外の全ての行いが悉く念仏を助けるものとなるべきなのです。
たとえ(自分が、六道の中の地獄・餓鬼・畜生といった)三つの悪しき境遇に再び生まれ変わってしまうような(悪業を犯す)存在であったとしても、(人というものは自分自身を)愛おしいのであれば、気にかけ労(いた)わるものです。ましてや往生すべく念仏を称える身であればこそ、是が非でも労わり育みなさい。
念仏を助ける訳でもなく、この今生の生を楽しみ、この世を渡っていく、唯その目的でのみ我が身を愛し、欲の赴くままに貪り求める生活を行えば、三つの悪しき境遇に堕ちていく行いとなるのです。(それに対して)極楽国への往生を果たす為に我が身を愛することは、往生を助ける行いとなるのです。
末法という時代観は、私たちを取り囲む環境について言ったものです。教えのみがあり、覚りを目指す修行も、その果である涅槃ももはや存在しない世界、そこにおいてはほんの少しの油断が三悪道へ堕ちる要因となってしまう。自分が知らぬ間に、覚りの妨げとなる煩悩を増上し、気づかぬうちに悪をなしてしまう環境だと言えるでしょう。
人は誰でも自分が愛おしいものです。釈尊は「皆それぞれが自己が愛しいのである。だからこそ、自分のために他人を害することがあってはならない」と仰っています。
ここで法然上人は、何よりも念仏を最優先事項として生きるべきことを私たちに薦められています。そして自分が愛おしいからこそ、最終的には念仏による往生を遂げられるように、今この時、そしてこれからの日々一刻一刻を生きるべきことを教えて下さっているように思えます。あれこれ思い悩む必要はない、一番大事なことを見据えて、日々を大切に生きて行きなさい、そのような声が聞こえてくるようです。
合掌
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