和尚のひとりごとNo1238「浄土宗月訓カレンダー2月の言葉」

和尚のひとりごとNo1238「今できること少しずつ」

 

 生き死にの問題を解決するのが宗教です。仏教も同じであり、特に浄土の御教えは先に「死」という一番の苦しみを解決し、今を生き切っていく教えとなります。
 昔、明遍(みょうへん)僧都(そうず)というお坊さんが居られました。法然上人の『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』を読み、「なるほど、法然の言う事も尊いところはあるが、一切の聖道(しょうどう)仏教を捨てて、阿弥陀仏の本願に帰せよとはいかがなものか。聖道門の教えも釈尊の説かれた法ではないか。それを、『聖道門の仏教では、千人のうち一人も助からない。阿弥陀仏の本願のみが、我らの助かる道なのだ』とは、余りにも偏執的(へんしゅうてき)であり排他的ではないか。仏教の他の教えを受け入れない偏り過ぎた考えではないか」との思いが至りました。「法然は排他的で喧嘩腰で頑固で、了見の狭い人間だ」とののしりまでされた。するとその晩、明遍は夢を見ました。
 天王寺の西門に憐れな病人が沢山集まっていました。その中に実に貴いお姿をされた墨染の衣と袈裟を着けた一人の聖者が、鉄鉢の中に重湯を入れて小さな貝でそれを掬いながら、病人の口に一人ずつ入れてやっているのです。親にも兄弟にも妻子にも見捨てられた憐れな病人を、たった一人の僧侶が看護しながら、静かに病人に手を差し伸べていたのです。しかもその看護の様子が、実に親切であり懇切丁寧でありました。夢の中で明遍は、「何という貴いお方であろうか。末法のこの世の中にも、こうした人が居られたのか」と傍の者に声をかけると、「あの方は吉水の法然上人様でございます」という声を聞いて、びっくりした時に夢から覚めました。
 明遍上人は、「法然上人は高慢で、排他的だと思っていたのは大変な間違いであった。あの様な状態の病人に御飯を食べよと言っても無理な事。あの病状では、どんなに滋養になるものが、どれだけ沢山あっても何にもならない。食べられるものは一つもない。彼らの糧は重湯より外にないのだ。重湯こそ、あの病人が命をつなぐ唯一の糧である事が判った。八万の法蔵(ほうぞう)はあれども、我ら凡夫(ぼんぶ)には無きに等しい。高嶺の花でしかない。末法の世に住む我々の救われる道は、弥陀の本願以外にはない」と明遍僧都は本願念仏の理(ことわり)を知り、深く懺悔(さんげ)して法然上人の弟子になっていかれました。
 仏教は八万四千と言われる程多くの御教え経典の中に記しています。悩み苦しみから離れていく手立てを示してくださっています。その中でも浄土の御教えは究極の御教えです。ただ口に「南無阿弥陀佛」とお念仏を称えるだけの易しい修行ですが、そのお念仏だけで救われていくのです。阿弥陀様のお誓いくださった教えですから間違いないのです。特別な手立ては要りません。無理なくできる範囲で毎日少しずつお念仏申して過ごして参りましょう。