和尚のひとりごと№1458「偈文51」
和尚のひとりごと№1458「偈文51」
(書き下し文)
新亡中陰の諸精霊等の、神は浄域に超え、業は塵労を謝し、仏を見、法を聞きて速やかに無生に入らん
(意味)
新たに亡くなった者も、今中陰の期間にある者も、全ての亡者の魂がきよらかなる国土である西方浄土へ入り、(浄土往生の為の正しい)行いである(念仏)が、心を疲れさせる生来の煩悩を退け、仏の御前にてその教えを直々に聞くことで、速やかに消滅変化を離れた真実の世界にたどり着くように
四十九日間続く中陰は有情の生存の流れを四段階(四有 しう)に分けた中で、母胎などに受精する瞬間(生有 しょうう)、以降臨終の間際まで(本有 ほんぬ)、そして死の瞬間(死有 しう)に続く次の生有の直前までの期間をいう。「中陰」は死有と生有との中間の五蘊(ごうん)という意味で、「五蘊」は身心を構成する五つの集まり、つまり生存そのものの意である。「中陰」は旧訳であり、玄奘以後の新訳では「中有 ちゅうう」と呼んでいる。
この生存形態を認めるか否か、古来アビダルマ時代より意見は二分され、さらにその期間についても諸説あったと伝えられているが、現在の中国・台湾やその流れをくむ日本のみならず、チベット系の仏教においても四十九日は重視され、次の生存形態が決定するあるいは解脱や浄土への往生が決まる大切な期間であると言われている。
中陰中に香を絶やさない習慣は、欲界の生存の中有は香を食すと言われる為で「食香」とも呼んでいる。
神は心・ 精神のこと。
超は、中間過程をとびこえて完全なさとりに入ること、浄土への速やかなる往生とかの地での成仏を願ったものか?
浄域は清らかな地域であり、西方極楽浄土のこと。
謝は、退ける・縁を切ること。
塵労は、心をわずらわせ、疲弊させる煩悩のこと。塵(ちり)とは六塵(ろくじん)と呼ばれる色(しき)・声(しょう)・香(こう・味(み)・触(そく)・法(ほう)を指し、これら感受の対象と六根(ろっこん)と呼ばれる感覚器官が触れることにより煩悩が起きるとされる。また心が本来は清浄でありそれに付着して汚すものが煩悩であるという意味で客塵煩悩(きゃくじんぼんのう)と表現することもある。
無生は生ずることがない、消滅変化がない無分別の境地、すなわち悟り・涅槃のこと。有為(因縁によるもの)に対する無為(因果を離れた不生不滅のあり様)に同じ。伝統的に無為と涅槃は同義であると考える。浄土を無為涅槃界と捉える時、往生することがこの無生の体得につながる為、往生を「無生の生」と呼んでいる。