和尚のひとりごとNo1080「法然上人一代記 10」

10.比叡の山をあとにして

師僧のお赦(ゆる)しを得て比叡の山を下りた法然上人は、下界(町)の様相に愕然(がくぜん)とします。度重なる戦乱、相次ぐ天災飢饉により京の民衆の生活は困窮を極めていたのです。
法然上人は京都嵯峨の清涼寺釈迦堂に向かわれました。ここに祀られる釈迦像は、インドにおけるお釈迦さまの生身のお姿を模して伝えられた三国伝来の釈迦牟尼像であり、人々にとりましては生き仏(いきぼとけ)同然でありました。法然上人はここに七日間参籠されました。まさに御仏(みほとけ)より直々(じきじき)にそのみ教えを受けるお気持ちであった事でしょう。
「仏の教えによってこれらの迷える人々を救えないものだろうか。どうか釈迦仏よ、お導き下さい。」
これがこの時の法然上人のお気持ちであったに違いありません。
釈迦堂をあとにした一路(いちろ)南都(奈良)に向かいます。さらなる勉学を重ね、名だたる師に教えを受ける為でありました。その途上、西山は広谷、粟生の里(京都府長岡京市粟生)の長者高橋茂右ヱ門(たかはしもえもん)宅に一泊されました。
「あなた様が求められる誰もが救われる法門が見つかりましたら、是非とも私どもにもお説きください」
このように懇願したのは他ならぬ茂右ヱ門夫婦でありました。