和尚のひとりごとNo1079「法然上人一代記 9」
9.日本仏教の母 比叡山にて学ぶ
のちに鎌倉新仏教を開いた祖師たちを輩出(はいしゅつ)した比叡山は、当時の仏教学の殿堂であるとともに、政治とも密接な関係を結んでいました。
「東(とう)は修羅(しゅら)、西(さい)は都(みやこ)に近ければ、横川(よかわ)の奥ぞ住みよかるべし」
このように詠われる比叡山に上った法然上人も、山法師が大挙して神輿(みこし)をかつぎ京の都に戦(いくさ)にでてゆく、そのような風景を目の当たりにすることもあったでありましょう。しかし志(こころざし)ある青年僧は黒谷へと遁世(とんせい)したのです。論湿寒貧(ろんしつかんぴん)、自然環境は湿気と寒さに代表され、何よりも華美を離れた質素な生活を送り論議に明け暮れると言われた比叡山の中でも、黒谷は格別であったと言われます。
そのような環境において、法然上人はわき目もふらず教典を学び修行に専念する日々を送りました。
中でも仏教の全ての典籍を集めた一切経を都合五回にもわたり読破し、あるいは師の慈眼房叡空(じげんぼうえいくう)と夜通しにわたって問答を行い、ついに師も弟子の知識に感服するほどであったと伝えられます。
そのような中、法然上人二十四歳のときに山を下りる決意をしました。