和尚のひとりごとNo1078「法然上人一代記 8」
8.別所黒谷へ
「進上(しんじょう)、大聖文殊像一体(だいしょうもんじゅぞういったい)」
叔父であり初めての師となった観覚得業よりこのように紹介された勢至丸は、実にこのとおり資質に恵まれ才気あふれる子供でありました。お山にて真摯(しんし)に仏法を学び、厳しい修行に邁進(まいしん)するさまは、まるで乾ききったスポンジがみるみるうちに水を吸ってゆくように教えを自らのものとしていきました。
やがて十八歳になると正式に得度を受け、今度は名僧のほまれ高い皇円阿闍梨(こうえんあじゃり)のもとで、大乗菩薩戒や天台三大部をはじめとする数々の学問を修めました。やがて比叡山第一と崇敬を集め、ゆくゆくは天台座主(てんだいざす)と噂されるまでになっていました。
しかし当時の比叡山は世俗化の度合い著しく、まるで俗世間のように僧侶としての名誉利達(めいよりだつ)を求める機運が強く、また権力争いも絶えないありさまでした。
俗世を離れて一身に修行したい、このように強く願うようになった上人は、ついに皇円のもとを辞し西塔別所は黒谷(くろだに)の青龍寺(せいりゅうじ)に住した慈眼房叡空(じげんぼうえいくう)のもとに参じ、純粋に修行できる環境においてひたすらに求道に専念することを選ばれます。
時に久安6年(一一五〇年)、十八歳、僧名も改め叡空より頂いた法然房源空(ほうねんぼうげんくう)を名のるようになりました。