和尚のひとりごと№1214「聖光上人御法語後遍二十一」
和尚のひとりごと№1214「聖光上人御法語後遍二十一」
そもそも教(きょう)の如(ごと)く説(せつ)の如く念仏を修行(しゅぎょう)して、仏(ほとけ)を見たてまつるは浄土宗の意(こころ)なり。教とは善導の教(おし)えなり、行とは専修(せんじゅ)の行なり。
此の念仏の行を修するには三心(さんじん)を具(ぐ)し、見仏(けんぶつ)を以て行者の所期(しょご)として、善導の教えの如く、道場内には余言(よごん)なく余念(よねん)なく、見仏の一念を立てて無間(むけん)に相続して、之を修(しゅ)せよと云う、是(こ)れ教なり。
是(かく)の如(ごと)く教の如く説の如く修する人は、必ず行成就(じょうじゅ)して仏を見奉るなり。是れ釈尊の教えに相応(そうおう)し、弥陀の本願の教えに相応し、善導の教えに相応するなり。之に依りて仏を見奉るなり。
訳
教の如く念仏修行
元来より、教えに従い説き示されたとおりに念仏を修行して、その結果御仏を見奉ることは浄土の教えの意(こころ)である。教えとは善導大師の教えであり、その実践は専修の行である。
この念仏の行を修めるには、三心を具足し、見仏をもって行者の目指すべき目的とし、善導大師のみ教えのごとくに、道場内では雑談を交えず、雑念を排し、見仏に向けた一念だけを途切れさせずに相続して、この行を修めよと、これこそがその教えなのである。
このように教えに従い説き示されたとおりに修める人は、必ず行を完成させて御仏を見奉ることになる。これこそは釈尊のみ教えに相応し、阿弥陀仏の本願に相応し、善導大師の教えに相応するところである。