和尚のひとりごと№1200「聖光上人御法語後遍七」

和尚のひとりごと№1200「聖光上人御法語後遍七」

 

聖光上人(しょうこうしょうにん)臨終用意(りんじゅうようい)に云う。念仏の行者臨終の時をかねてより最も用心すべきなり。最後臨終(さいごりんじゅう)の一念(いちねん)に生処(しょうしょ)の善悪(ぜんなく)をさだむ。もし悪念(あくねん)をおこして顚倒(てんどう)すれば悪道(あくどう)に堕(だ)す。此のたび往生を遂(と)げずんば又いつをか期(ご)せんや。故にもろこしの善導和尚(ぜんどうかしょう)・道綽禅師等(どうしゃくどうしとう)の往生の先達(せんだつ)みな臨終の用心をしめし給えり。和尚(かしょう)のいわく、ただちに気消(きき)え、いのち尽き、識(しき)、冥界(みょうかい)にいたるをまちて、まさに始めて念仏し鐘をならすこと、恰(あたか)も賊(ぞく)さりて門をとざすがごとし。何事をかなさん。
*
凡(およ)そ臨終の善悪(ぜんなく)は執愛(しゅうあい)の有無(うむ)による。この執愛ことさらに束(そく)してこれをいえば、三つに過ぎず。
一つに境界愛(きょうがいあい)とは男女(なんにょ)・子息・夫婦(ぶぶ)・緑友(えんう)・処居(しょきょ)・住宅・金銀財宝(こんごんざいほう)これらの境界(きょうがい)において、愛執(あいしゅう)を起こせば出離(しゅっり)を碍(さまた)ぐるなり。たとえば鉄の縄を腰に纏(まと)いて、解きがたく切りがたきが如し。
二つに自体愛(じたいあい)とはその身(み)の器量・学問・才能・官禄(かんろく)・名門(みょうもん)・肌膚(きふ)・容貌等(ようぼうとう)その品(ほん)にしたがい、その分に応じて、己(おの)が身に愛執を起こさば出離を障(さまた)ぐるなり。たとえば巌(いわお)をいだいて淵(ふち)に入るが如し。
三つに当生愛(とうしょうあい)とは命終りて後(のち)、生るべき所を愛するなり。もし堕獄(だごく)する人も、はじめは地獄と思わずして蓮花池(れんげち)の思いをなして、愛をおこして直ちにおもむくと。
*
往生をねがう人は平生(へいぜい)あらかじめ、愛執をいとい粗著心(そぢゃくしん)を離るべし。愛執の深きは厭離(えんり)の心なくして、欣求(ごんぐ)の心弱き故なり。厭欣(えんごん)の心強ければ、自(おのずか)ら死を怕(おそ)れざるなり。死を怕れざれば臨終顚倒(りんじゅうてんどう)せず。顚倒せざれば往生の素懐(そかい)を遂ぐべし。
*
その生因(しょういん)をたずぬれば、弥陀本願(みだほんがん)の力をたのみ、口称(くしょう)の一行を修(しゅ)するばかりなり。 これ易行易修(いぎょういしゅ)にして凡夫出離(ぼんぶしゅっり)の要路(ようろ)、これにすぎたるなし。かくの如く欣求進修(ごんぐしんじゅ)すれば、自然(じねん)に愛執を放(はな)れ、任運(にんぬん)に業障(ごっしょう)を除滅(じょめつ)して、仏の迎接(こうしょう)にあづかり臨終正念にして、彼の国に生まるること疑いなきものなり。

 

臨終の相

聖光上人が臨終時の用意について述べている。念仏の行者は臨終の瞬間を平生時よりもっとも気にかけておくべきである。最後臨終の一念において次生(じしょう)の善・悪が決まるからである。もしその時悪しき念を起こして心顛倒(てんどう)することがあれば悪しき境涯に堕ちる。今生のこの身で往生を遂げなければ、いつそれを期するというのか。それ故に唐土の善導和尚、道綽禅師など浄土往生の道の先達は皆、臨終の時に向けた用心を示されているのだ。善導和尚が仰るには、臨終を迎えて行者の気が消え失せ、寿命尽き果てて、識の本体が冥界へと至ってしまってから、念仏を称え始めて、あるいは鐘を鳴らしたところで、それでは盗賊がすでに去ってから家の門をかたく閉ざすようなものである。何にもならない。

およそ臨終時の善と悪というのは、執着・愛欲があるかどうかによっている。この執着・愛欲をまとめて説明すれば次の三種に整理される。一つに境界愛(きょうがいあい)というのは、男女、夫婦、縁者・友、住処、住宅、金銀財宝といった生者をかつてとりまいていた境遇に対して、執着・愛欲を起こせばそれが解脱を妨げるという事である。それを例えれば鉄の縄を腰に巻いてしまうと、容易にほどき難く切り離すことも難しいようなものである。
二つに自体愛(じたいあい)というのは、その身の器量、修めてきた学問、才能、官位・禄高、家柄、肌、容貌などに対して、身分に応じ身の程に応じて、執着・愛欲を起こせばそれが解脱を妨げるという事である。例えれば巨大な岩石を持って深き淵に入ろうとするようなものである。
三つに当生愛(とうしょうあい)というのは、寿命尽きてのちに生まれ変わる先の境界に対する愛着である。たとえ地獄へ堕(お)ちる人も、最初は自分の往く先は地獄ではなく極楽の蓮華池であろうと思いなして愛着を起こし、結果地獄へと堕ちてゆくという事である。

往生を願うならば平生よりあらかじめ、愛欲・執着を嫌い、欲望の対象に次々ととらわれる心を離れよ。愛欲・執着が深いこと、それは穢土(えど)を厭(いと)い離れたいという心がないが故、また浄土を求める心が弱いが故の事である。厭離(おんり)・欣求(ごんぐ)の心強ければ、おのずと死を恐れることもなくなる。死を恐れなければ臨終の時に心顛倒することもない。心顛倒しなければ往生の素懐(そかい)を遂げるであろう。

往生の要因を尋ねれば、阿弥陀仏の本願力にたのみ、口称念仏の一行を実践することに尽きる。これこそ実践しやすく修めやすい凡夫が解脱するためのかなめとなる路(みち)、これ以上の道があるはずがない。このように浄土を願い精進すれば、自然(おのず)と愛欲・執着から放れて、流れのままに積み重ねてきた悪業(あくごう)による障(さわ)りも除かれ、仏の来迎(らいこう)にあずかって臨終時に正念を抱き、彼の浄土へと生まれること、疑いなき事である。