和尚のひとりごと№1168「聖光上人御法語前遍七」
和尚のひとりごと№1168「聖光上人御法語前遍七」
善導の御心(みこころ)は、世を云(い)えば末法(まつぽう)なり、人を云(い)わば破戒(はかい)なり、 智恵を云わば極めて邪智(じゃち)なり。人、口には経をよみ参(さん)ずれども、心には様様(さまざま)の妄想心(もうぞうしん)を発(おこ)す身に、修行をすれども心には憍慢(きょうまん)あり。 わずかに戒(かい)を持てども破(やぶ)れ易(やす)く、塵(ちり)ばかりの智恵を以て人に倍(ま)したりと云(い)う邪智(じゃち)を発(おこ)す。されば法花経(ほけきょう)よりも生死(しょうじ)を出で難く、真言(しんごん)よりも生死を出で難し。善導この旨(むね)を悟(さと)り得(え)て、末法に時を得(う)、愚(おろ)かなる無智の人人の機を得て、かかる浅ましき者共(ものども)に、さて生死を得出(えい)でずして止むべき事かはとて、ただ深く阿弥陀仏の不思議の願力を信じて、念仏一脈(ひとすじ)に成れと勧(すす)めたまえるなり。
訳
善導大師の御心(みこころ)、それは世の中をみれば末法であり、人々をみれば一切戒を保てず、その智慧を計れば覚りからは程遠い邪なる智慧ばかりであるというものだ。
人は口では経を拝読し奉ろうととも、その内なる心には様々な妄想を起こし、全身全霊をもって修行に励もうとも、心には驕(おご)りたかぶりが存在している。わずかばかりの戒を保とうとしても破ることた易く、微塵(みじん)も足らぬ智慧によって他人より優(すぐ)れたりとの邪なる心を起こす。
であれば『法華経』に依って生死輪廻を離脱することは難しく、真言密教の教えによっても然りである。善導大師はこの事を悟って、末法の時代に生をうけ、しかも愚かな無智の人間としての素質しか与えられず、このように浅はかな者たちにとって、ひとまずは輪廻を離脱することを得なければどうにもならないではないかとされて、ただ心より阿弥陀仏の不可思議なる本願の力を信じ、念仏ひとすじに成れと勧められたのである。