和尚のひとりごとNo1131「法然上人一代記 59」
59.上人滅後の迫害
世に偉大なる存在の社会に対する影響力は大きく、また自ずと多くの人々を感化してしまうものです。そしてそれに対する反発もやむを得ぬものかもしれません。ましてやその思想が真に革命的であり、旧来のものと相対立する要素さえ含む場合はなおさらでありましょう。
法然上人滅後、その教えと教えを守り伝えようとする門弟たちに対する迫害が続いたと伝えられています。
法然上人がその念仏の教えの正当性を顕わさんとされた『選択集』に対して、比叡山に住する並榎(なみえ)の定照(じょうしょう)という僧が『弾選択(だんせんちゃく)』という書物で反駁しました。それに対して隆寛は早速に『顕選択(けんせんちゃく)』を著わし、定照の非難が的(まと)を得(え)ていない事を示しました。
憤(いきどお)った定照は比叡山にて触(ふ)れ回(まわ)り学僧たちの決起を促しました。そればかりか座主に訴え、法然上人の弟子たちの流罪を奏上、上人の墓所であった大谷御廟(おおたにごびょう)を打ち壊し、遺骸を鴨川に流してしまおうと企てました。
これを聞いた六波羅探題は、内藤五郎盛政(ないとうごろうもりまさ)を差し向けてこれを制止しようとしましたが山門の衆は一向に聞く耳をもたず、墓所を打ち破り房舎を壊そうという暴挙に出たため、盛政はついに武力でもってこれを押し止めました。