和尚のひとりごとNo1082「法然上人一代記 12」
12.当時の奈良仏教
平安期に弘法大師の真言宗、伝教大師の天台宗ができるまで、仏教の研究の中心は何と言っても奈良でありました。かつて欽明天皇(きんめいてんのう)の御代(みよ)に仏教が日本につたえられてより大陸で熟成された研究成果が次々と伝えられ、僧たちは国家の庇護(ひご)のもとでその咀嚼(そしゃく)に努めました。しかし当時の南都の仏教はなによりもまず国家主導の仏教であり、国家を荷(にな)う天皇や貴族の為の仏教でありました。
当時から華厳宗の東大寺には大毘盧遮那仏(だいびるしゃなぶつ)のお姿を表わす大仏が祀られ、最も勢力のあった法相宗では興福寺や薬師寺、法隆寺の堂々たる大伽藍が立ち並んでいましたが、それらは一般の民衆を救うことが目的でもなく、民衆にとっては仏教は縁遠いものでしかありませんでした。
そうした南都を遊学される中、法然上人はある書物に心惹かれます。永観律師(ようかんりっし)による『往生拾因(おうじょうじゅういん)』であります。ここには念仏によって得られる十種の功徳が説かれ、一心に称名念仏すれば必ず往生を得ることが詳しく記されていました。永観律師はこれを「念仏宗」として、他の顕密諸宗(けんみつしょしゅう)との違いをはじめて明らかにされています。