和尚のひとりごと№1924「浄土宗月訓カレンダー10月の言葉」

和尚のひとりごと№1924「同じ月を眺めている」

 秋になり過ごしやすい季節になって参りました。秋の夜長に煌々と光る月を眺める機会もある事でしょう。法然上人は阿弥陀様の光明を月の光に喩えて御歌を遺されました。
 月影の 至らぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ
(月の光の届かない人里はありません。光は全ての里に届いてはいますが、月を眺める人の心にこそ届き、その光の美しさがわかるものです。)
 お念仏を申す者は必ず阿弥陀様の御光に照らされて救われていきます。その御教えを歌に詠み込んでくださいました。浄土教は、後世を想い今を生ききる為の御教えです。しかし後世を想う部分だけに重点を置いていると理解され、浄土教は現世の生活規範や道徳については無関心だと批判されたりします。しかし、法然上人は、先ずは自分自身の心の内を見つめ直す事から信仰が始まると説かれました。それを信機(しんき)と言います。自分自身の機根(きこん)<教えを受ける者の性格・資質>を見つめ直す事です。つまり、自己とは煩悩(ぼんのう)というどうしようもない欲を持っている者だという自覚と、その為に迷いを離れる事の出来ない存在である事を深く信じる事です。自分の力ではどうしようもない人間であると、その心を省みる事が先決なのです。
 法然上人は、「自身は現にこれ罪悪生死(しょうじ)の凡夫(ぼんぶ)、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転(るてん)して、出離(しゅっり)の縁有る事無し」と、過去の世から現在に至る迄、生死輪廻(しょうじりんね)を繰り返し、自分の力では抜け出す事の出来ない機根の持ち主だと自覚すべきだと示されました。その様な存在だからこそ、阿弥陀様に救っていただくしか方法はないのです。
 また法然上人は私たちの煩悩について次の様な言葉を遺されています。
「葦(あし)のしげき池に十五夜の月のやどりたるは、よそにては月やどりたりとも見えねども、よくよくたちよりて見れば、あしまをわけてやどるなり。妄念のあしはしげけれども三心(さんじん)の月はやどるなり」(葦の茂った池にも十五夜の月は宿っている様に見えますが、遠くからだと月の光は池に映っていない様に見えます。しかし、近くでよく見れば、葦の間を分けて月の光が宿っています。その様に、葦が多く茂る様な妄念があってもお念仏を申し続けていれば、往生したいという心は自然と具わってくるのです。)
 私たちの心は、どうしようもない煩悩の草が生い茂っている泥沼の様なものです。しかし、阿弥陀様の光明は遮るものも、妨げられる事もなく煩悩の草の隙間に燦々と輝いてくれています。どの様な人間でも、皆平等に阿弥陀様の光明に照らされているのです。そして阿弥陀様に導かれ、後世に生まれて往く世界が有り、この世で縁の有った方々とも御念仏を縁として後の世で再会するのです。その時に良いお話が出来る日暮らしとなれば今の生き方が変わって参ります。後世に想いを馳せて今をしっかりと生き切って参りましょう。