和尚のひとりごと№1186「聖光上人御法語前遍二十四」

和尚のひとりごと№1186「聖光上人御法語前遍二十四」

往生の正業

正業(しょうごう)とし奉(たてまつ)る心は、平等の功徳(くどく)と成るが故なり。平等の功徳と申すは、南無阿弥陀仏と申す事はいかなる人の口にも唱えらるる事なり。いわゆる貴(たつと)き人の口にもまずしき人の口にも、智恵ある人の口にも智恵なき人の口にも、徳ある人の口にも貧窮(ひんぐ)の人の口にも、幼き人の口にも年老(としお)いの人の口にも、幸(しあわせ)ある人の口にも幸なき人の口にも、誠にかかる目出度(めでた)きと侍(はべ)りて、普(あまね)くもろもろの万人を極楽に導き渡す、功徳善根(くどくぜんごん)のあまねく衆生を利益(りやく)し度(ど)する事は、ただ此の念仏なり。故に往生の正業と申すなり。

往生の正業

正業(しょうごう)として受け賜わるのは、それが平等の功徳となるからである。平等の功徳とはどんな人も口で称えられるという事である。言うなれば身分の高い人の口でも貧しい人の口でも、智慧ある人の口でも智慧なき人の口でも、徳高き人の口でも困窮の極みにある人の口でも、幼い子供の口でも年老いた人の口でも、幸せな人の口でも不幸な人の口でも。まことこのように素晴らしきこと、全ての人々を極楽へと導き渡し、その功徳と善根はあらゆる衆生に恵みを与え救済する、これはただ念仏のみである。