五重相伝の概要

今回は五重相伝の歴史と概要についてご紹介致します。

五重相伝とは?

五重相伝とは、浄土宗義の秘奥(最も大切な教えの要)を相伝する行事であり、我が宗で実施される伝法の儀則(しきたり)です。歴史的には今の宗教法人浄土宗につながる浄土宗鎮西派(ちんぜいは)の第七祖である聖冏(しょうげい)禅師が確立した伝法制度の事を指しています。
そもそもの始まりは、かつて利根川流域にあった天台宗の談義所における五重を改変して、浄土宗的に改変したものであると見られています。聖冏は当時の禅宗の虎関師錬などによる浄土門への批判を受けて、浄土宗が独立した宗派となる礎を築いた功績が評価されており、これを具体的に見れば『浄土真宗付法伝』一巻を著して、浄土宗には釈尊以来の師資相承の譜脈が確かにあることを明らかにし、『顕浄土伝戒論』によって、浄土宗に慈覚大師以来の円頓戒を相伝があることを説明しています。このように聖冏は、浄土宗に宗脈(教えの相承)と戒脈(戒律の相承)の伝灯相承のあることを示し、浄土宗の僧侶となる為にはこの両脈の相承が不可欠であると規定しましたが、そのうちの宗脈に関する総称が本来の五重相伝と呼ばれるものとなります。
また五重相伝と呼ばれた所以は、五重の次第を立てて宗義を相承し、五通の血脈を伝授する為であるとも言われています。

 聖冏の五重相伝
・聖冏は『五重指南目録』を撰述して五重相伝を組織化し五十五箇条の伝目を制定しましたが、その古式の内容を整理すれば次のようになります。

まず五重相伝で伝えられる形式には「書伝」と「口伝」があります。
書物で伝えられる書伝とは三巻七書(浄土宗の教えの要を記した書物)に筆録されたもので、口伝とは書伝に付随した口授(口伝え)でこれに五十五箇条あるとされています。

「三巻七書(さんがんしちしょ)」の三巻(さんがん)とは、元祖 法然房源空上人撰と伝えられる『往生記』一巻、浄土宗第二祖 聖光房弁長上人の『末代念仏授手印(まつだいねんぶつじゅしゅいん)』一巻、浄土宗第三祖 良忠上人の『領解末代念仏授手印抄(りょうげまつだいねんぶつじゅしゅいんしょう』一巻の合計三巻を指しています。

そして七書(しちしょ)とは、聖冏上人の『往生記投機抄(おうじょうきとうきしょう)』一巻、同『授手印伝心抄(じゅしゅいんでんしんしょう)』一巻、同『領解授手印徹心抄(りょうげじゅしゅいんてっしんしょう)』一巻、良忠上人の『決答授手印疑問抄(けっとうじゅしゅいんぎもんじょう)』二巻、また聖冏上人の『決答疑問銘心抄(けっとうぎもんめいしんしょう)』二巻を指しています。
聖冏はこれら三巻七書を浄土宗の奥義を記した伝書と設定しましたが、聖冏自身の著作は各々先師の著作に対する注釈のスタイルを取る為、分かりやすく図示すれば次のようになります。
先師の著作                  左に対する聖冏の註釈
伝 源空撰『往生記』一巻          『往生記投機抄』一巻
聖光『末代念仏授手印』一巻         『授手印伝心抄』一巻
良忠『領解末代念仏授手印抄』一巻      『領解授手印徹心抄』一巻
良忠『決答授手印疑問抄』二巻

そして実際の五重相伝においては次の次第で相伝されていました。
初重(しょじゅう)では『往生記一巻』を伝書として、口伝である四箇条と知残(しりのこし)一箇条を相伝する。

二重(にじゅう)では『末代念仏授手印一巻』を伝書として、口伝である三七箇条と云残(いいのこし)一箇条を相伝する。

三重(さんじゅう)では『領解末代念仏授手印鈔一巻』を伝書として、口伝である一箇条と書残(かきのこし)一箇条を相伝する。

四重(しじゅう)では『決答授手印疑問鈔二巻』を伝書として、口伝である二箇条と云残一箇条を相伝する。

第五重(だいごじゅう)では書伝はなく、『往生論註』(浄土五祖の初祖 曇鸞撰)の一節に基づいて口伝である六箇条と書残一箇条を相伝する。この際に伝えられるのが十念の口伝(本願念仏の法)となる。

上に述べたの各伝書とそれぞれの伝書に付随する諸伝目(つまり「書伝」と「口伝」)を通じて 初重では機(信機)を、二重では法(信法)を、三重では解(げ)を、四重では証を、第五重では信をそれぞれ相伝するとされています。

日数についてはもともとは114日の長期間を要しました。
まず前加行である初七日に、道場荘厳・身器清浄・滅罪生善などの諸々の準備を行い、
正行となる次の七日に上記の三巻七書の講読ならびに五十箇条口伝の相伝を行い、
さらに続く百日で六時礼讃・誦経・念仏などを実践しながら、

➀三経一論・②善導「五部九巻」・③曇鸞『往生論註』・④道綽『安楽集』・➄法然『選択集』・⑥聖光『西宗要』・⑦良忠『東宗要』など浄土宗で重視する主要な書物の講読を行います。

➀「三経一論(さんぎょういちろん)」とは我が宗で正しい拠り所とする経論の総称で、三経とは浄土三部経すなわち、曹魏康僧鎧(そうぎ こうそうがい)訳『仏説無量寿経』二巻、劉宋畺良耶舎(りゅうそう きょうりょうやしゃ)訳『仏説観無量寿経』一巻、姚秦鳩摩羅什(ようしん くまらじゅう)訳『仏説阿弥陀経』一巻、そして一論とは世親造『往生論』一巻を指しています。

②善導「五部九巻(ごぶくかん)」とは現存している善導大師の著作の総称で、『観経疏(かんぎょうしょ)』四巻、『法事讃(ほうじさん)』二巻、『往生礼讃』一巻、『観念法門』一巻、『般舟讃(はんじゅさん)』一巻を指しています。

③浄土五祖の第一祖曇鸞大師の著した『往生論註』は世親菩薩の『往生論(『無量寿経優婆提舎願生偈 むりょうじゅきょううばだいしゃがんしょうげ』)』に対する註釈書です。

④道綽禅師も浄土五祖の一人でこの『安楽集』では『観経』を中心に安楽浄土への往生を勧めておられます。

➄『選択集(選択本願念仏集)』は元祖法然上人の主著で、選択(せんちゃく)思想に基づいて称名念仏による往生が仏の本願に誓われた確実なものであり、末法の衆生である私たちにとり唯一の道である事を、様々な経論を横断的に引用しながら理論的に示した浄土宗の根本聖典です。

⑥聖光『西宗要』・⑦良忠『東宗要』はともに『浄土宗要集』という書名を持ち。ともに私たちがその流れを受け継ぐ浄土宗鎮西派の教義を確立した書と位置づけられます。

聖冏によって確立された五重相伝は、弟子であり現在の浄土宗大本山 増上寺開山の聖聡(しょうそう)上人へと引き継がれ、同寺二世の酉仰(ゆうこう)や知恩院二一世の慶竺(けいじく)、のちの有力檀林の飯沼弘経寺(いいぬまぐぎょうじ)二世の了暁(りょうぎょう)などに同様の形で相伝されていきましたが、増上寺三世の聖観(しょうかん)の時代になると、当時の応仁の乱という社会状況を反映して大幅な修行期間の短縮化(14日間)が図られました。

また室町末期からの戦乱の中で学業半ばにして帰郷せざるを得ない僧衆が多くなると、増上寺九世の道誉貞把(どうよていは)、同寺一〇世の感誉存貞(かんよぞんてい)等によりさらなる改革が実行されます。ここにおいて相伝内容は浅学相承と碩学相承に二分され、五重相伝の伝目が箇条伝法化されました。
浅学相承(せんがくそうじょう)とは檀林において五年間の修学を経た浅学衆(せんがくしゅう)を対象としたもので、自行(自分の為の行)の要となる五重のみを伝授することで一応の宗侶であると見なしたものです。自行のみを修めたという意味で、これを五重自証門伝(ごじゅうじしょうもんでん)と呼んでいます。
これに対して浅学相承ののち、さらに15年間修学した碩学衆(せきがくしゅう)を対象としたものを碩学相承(せきがくそうじょう)と呼びました。ここにおいて初めて宗脈・円戒・璽書(じしょ)の全てが伝授されて、化他(他を利すること・教化)の資格が与えられました。化他をいもい修めたという意味で、これを宗脈化他門伝(しゅうみゃくけたもんでん)と呼んでいます。
また五重相伝の伝目の箇条伝法化(かじょうでんぼうか)によって、浅学相承の為に必要な箇条のみを相伝する便宜を図りました。
その後近世になると安定した社会のもとで諸事項の制度化が進み、伝法に関しても成文化が行われるようになり、主に増上寺を中心とした関東で伝法研究が進んでいきました。また各檀林や諸碩学によって随意に箇条伝目の増減や独自の伝目の作成が行われ、結果として伝法の統一性は失われていきました。
さらに明治時代の激動を経て大正、昭和と度重なる制度の改変を経て、現行の伝宗伝戒のあり方に至っています。

以上見てきたように五重相伝は本来は正式な僧侶となる為の伝法儀式(登竜門)であり出家者向けのものでした。それに対して在家(檀信徒)に対する五重相伝を化他五重(けたごじゅう)あるいは結縁五重(けちえんごじゅう)と呼んでいます。現在ではむしろ僧侶向けのものを「伝宗伝戒(でんしゅうでんかい)」、在家向けのものを「五重相伝」というように区別立てするのが一般的になりました。在家向けの五重相伝は浄土宗の一般の檀信徒が正式な浄土宗信者となる為の修行であり、もともとは7日間であったのが現在では5日間で勤められるようになっています。

在家の五重相伝は、室町末期に知恩院二三世であるとともに三河大樹寺を開山した事で知られる愚底(ぐてい)上人が、のちの徳川家に連なる三河領主の松平親忠に相伝したことに始まります。その時の内容は伝えられていませんが、近世初期になると名目的には禁止されていた在家向けの五重相伝が、実質的には各地で実施されるようになったと推定されています。やがて江戸末期には在家の五重相伝自体が奨励されるようになり、各地方で特色ある五重相伝が実施され、現在のように普遍性を持つに至りました。

参考:浄土宗大辞典、新浄土宗辞典、他