一枚起請文

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文9

建暦(けんりゃく)二年正月(しょうがつ)二十三日       大師(だいし)在御判(ざいごはん)

【意味】
ときに建暦二年正月の二十三日
源空上人が直々に押印す。

 

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文8

【原文】
源空(げんくう)が所存(しょぞん)、この外(ほかに)全(まった)く別義(べつぎ)を存(ぞん)ぜず、滅後(めつご)の邪義(じゃぎ)をふせがんがために所存(しょぞん)をしるし畢(おわ)んぬ。

【意味】
私、源空が思うところは このこと以外に何もありません。
ただ私がこの世を去ったのち 誤った考え方が出てくることを防がんとして
思うところを記しました。

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文7

【原文】
浄土宗(じょうどしゅう)の安心(あんじん)起行(きぎょう)この一紙(いっし)に至極(しごく)せり。

【意味】
浄土門の信心の持ち方、そして修行実践のやり方は
この一紙に記したことに極まります。

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文6

【原文】
証(しょう)のために両手印(りょうしゅいん)をもってす。

【意味】
以上述べたことに誤りなきことを証明するしるしとして
私は両手にて印を押します。

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文5


【原文】
念仏を信(しん)ぜん人(ひと)は、たとい一代(いちだい)の法をよくよく学(がく)すとも、一文不知(いちもんふち)の愚鈍(ぐどん)の身(み)になして、尼入道(あまにゅうどう)の無智(むち)のともがらに同(おな)じうして、智者(ちしゃ)のふるまいをせずしてただ一向(いっこう)に念仏すべし。


【意味】
念仏を信じようとする者は たとえ釈尊が生涯にわたり説かれた教えをよく学んでいたとしても
自らを文字のひとつも理解しない愚か者であると受け止めて
まだ学びの浅い尼僧や仏道を始めたばかりの初学者たちと全く同じように
あたかも智者であるかのような振る舞いをせずに ただひたすらに念仏をするべきなのです。

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文4

 【原文】
この外(ほか)に奥(おく)ふかき事(こと)を存(ぞん)ぜば、二尊(にそん)のあわれみにはずれ、本願(ほんがん)にもれ候(そうろ)うべし。

【意味】
もしこのこと以外に私が さらに奥深い真理があると知り
またさらなる教えの探究が必要であるなどと考えているならば
釈迦ならびに弥陀の二尊の慈悲の心から外れて
我々を救わんとする本願から漏れ出てしまうことになるでしょう。

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文3

【原文】
ただし三心(さんじん)四修(ししゅ)と申(もう)すことの候(そうろう)は、皆(みな)決定(けつじょう)して南無阿弥佛(なむあみだぶつ)にて往生(おうじょう)するぞと思(おも)ううちにこもり候(そうろう)なり。

【意味】
ただし往生に必要だとされている「三種の心の持ち方」や「修行に対する四種の態度」については
南無阿弥陀佛と称えることによって往生は確実となると思う心の中に自ずと具わるものなのです。

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文2

 【原文】
ただ往生(おうじょう)極楽(ごくらく)のためには、南無阿弥陀佛(なむあみだぶつ)と申(もう)して、うたがいなく往生(おうじょう)するぞと思(おも)い取(と)りて申(もう)す外(ほか)には別(べつ)の仔細(しさい)候(そうら)わず。

【意味】
ただ極楽世界に往生するためには 南無阿弥陀佛と声に出して称え
そのことにより必ず往生できるのだと確信した上で称える他には
とやかくと修行をしたり学問を極めたりする必要はありません。

和尚のひとりごと「宗祖(元祖)法然上人御遺訓 一枚起請文1

今回から「一枚起請文」 読んでいきます。

【原文】
唐土我朝(もろこしわがちょう)に、もろもろの智者達(ちしゃたち)の、沙汰(さた)し申(もう)さるる観念(かんねん)の念(ねん)にもあらず。また学問(がくもん)をして、念(ねん)のこころを悟(さと)りて申(もう)す念仏(ねんぶつ)にもあらず。

【意味】
私が説いてきた念仏は、古来より中国や我が国において
数多くの学者たちによって様々に見極められ見定められてきた
仏や浄土の姿を見奉ろうとする観念の念仏ではありません。
また学問を積んで念仏の意義を理解することで称えられる念仏でもありません。

和尚のひとりごと「一枚起請文0」

浄土宗の朝夕のお勤めにおいて読誦される『一枚起請文』は、
元祖法然房源空上人がそのご臨終の床にあって、愛弟子の勢観房源智上人に託された御遺訓(遺戒)であるとされ、京都黒谷にある金戒光明寺には直筆と伝えられる「一枚起請文」が伝承されています。
成立は入寂直前の建暦二年(一二一二)正月もしくは、その前年の12月だといわれ、生前より説かれてきたお念仏の教えと実践の真髄がここに示されています。
念仏一行、ただそれだけとされれば、ここに様々な意味合いを読みとろうとするのが、私たち凡夫のならいであるかもしれません。事実、元祖上人の御心にそぐわない様々な”邪義(よこしまなる見解)”が主張されることもあったのでしょう。
しかしここではっきりと説示されているように、”たとえ釈尊の説かれた教えを悉く学びつくしたとしても、自分はいまだ愚かな者であると見定めて、ただひたすらに念仏すべきである”、これこそが元祖上人が弥陀の化身と仰ぐ中国の善導大師より受け継いだ教えであり、仏の大慈悲にかなうお念仏であります。
「和尚のひとりごと」では、一枚起請文をわけて見ていきたいと思います。

合掌

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