和尚のひとりごとNo1077「法然上人一代記 7」

7.比叡山へ

さて勢至丸の母、亡き夫の血をひく大切な一人息子、その愛情深きことは想像に難(かた)くはありません。出家の身となるということは、俗世の縁を切り、出世間への道を進むことであります。涙ながらにこの申し出を受けた母は恐らくは、もう再び今生(こんじょう)にて会うことはできないだろうと思ったに違いありません。

まこと悲しき母子の別れでありました。時に勢至丸十五歳、勢至丸を育てた栃之介(とちのすけ)、おこそ夫妻に付き添われいよいよ家を出でるとき
「形見(かたみ)とて はかなき親の とどめてし この別れさへ またいかにせん」
(あのような形で世を去った夫の忘れ形見である息子さえも、このように生き別れにならねばならないとは、言い表せぬ悲しみであることよ)
母はこのように歌を詠(よ)みました。
勢至丸も母とも別れは堪えがたきものであったに違いありません。しかしながら父の遺言に導かれ、苦しみ多き俗世を離れ出世間への道を歩むことこそ、まことの報恩となると、固き決心のもと母との別れを告げました。
さて叔父の観覚はかつての知人であった比叡山西塔北谷(ひえいざんさいとうきただに)に住する持宝房源光(じほうぼうげんこう)にあてて手紙をしたためました。ここにはこのように書かれていたと言われています。
「文殊菩薩の像を一体さしあげます。」
源光は思いました。なるほど世にも賢き子供であるから文殊であると。