和尚のひとりごと№1388「浄土宗月訓カレンダー7月の言葉」
和尚のひとりごと№1388「当たり前と思う あやうさ」
「功(こう)の多少(たしょう)を計(はか)り、彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る」という言葉があります。仏道修行において食事を戴く前にお唱えする言葉です。
「功の多少」を計るとは、目の前の食事が今、食卓に並べられるまでには沢山の人たちの手が加えられている、その結果です。その事に感謝いたしましょうという事です。
「彼の来処」を量るとは、食べ物一つ一つが、料理として出来上がってきたその由来の事です。一体どの様な縁で、今、自分の口に入る事になったのか。どの様に育てられ、どの様な経緯で私たちの口に入るに至ったのかという事です。お米ならば種から苗、そして田んぼで農家の方々が丹精込めて育てられたのです。魚ならば海や川で泳いでいるところを漁師に捕まえられたのです。様々な環境で育ち、そして縁があって今その命を私たちが頂戴しているという事を知りましょうというのが、「彼の来処」を量るという事です。
法然上人は、「念仏の第一の助業(じょごう)、米に過ぎたるはなし」(『黒谷上人語灯録』和語篇「十二問答」)と言って、「お念仏生活を助けるものとして、お米以上のものは御座いません」と仰られました。南無阿弥陀佛のお念仏の生活を支えてくれる、助けとなる一番は「お米」です。すなわち、「食事でありますよ」と仰られたのです。食事というのはあくまでもこの私たちの命を繋いでいくものです。法然上人にとっては、「お念仏を申す助けとなるもの」として戴くものであると示されました。
今の日本は飽食の時代で食べ物があふれております。「食」に対する美味しさや楽しさを追求する事には妥協しない一方で、「食」の原点とも言うべき、命をつなぐものという本来の意味を忘れかけてはいないでしょうか。贅沢が過ぎると当たり前が当然となり、口から不平、不満の言葉しか出てこなくなります。
仏教の説く世界観で、「餓鬼道(がきどう)」という世界があります。生前、貪(むさぼ)りや物惜みの欲が強かった者が堕ちる世界が「餓鬼」の世界です。その餓鬼道に堕ちた者をお釈迦様の御教えに従って、救う儀式を執り行うのが「お施餓鬼(せがき)法要」です。餓鬼に施す事です。食べ物がありふれて当たり前だと思って、贅沢し過ぎる私たちに「物の有り難さ」を知らしめてくれるものでもあります。美味しいものを食べたいというのは人間の性でありますが、「食」は本来は命を繋いで戴くものです。そこには沢山の人が汗を流され、そして沢山の命を頂戴しているのです。その事を共々に考えさせていただき、当たり前の有り難さを感じたいものです。