和尚のひとりごと№1210「聖光上人御法語後遍十七」

和尚のひとりごと№1210「聖光上人御法語後遍十七」

発得(ほっとく)は一種に非(あら)ず。現前(げんぜん)一種に非ず、種種(しゅじゅ)なり。或いは阿弥陀仏を見たてまつりて、極楽を見ざる発得もあるべし。或いは極楽を見て仏(ほとけ)を見奉らざる発得もあるべし。あるいは依正(えしょう)ともに見る者もあるべし。雙巻経(そうかんぎょう)の三輩(さんぱい)の下(げ)の文(もん)の如きは夢に見ると云えり。華厳経(けごんぎょう)にはまた光明(こうみょう)を放つを見仏と名づくと云えり。光明を見るもあるべし、紫雲(しうん)を見るもあるべし、極楽の樹林池蓮華鳧雁鴛鴦異香(じゅりんちれんげぶがんおんおういこう)みな阿弥陀仏の所変(しょへん)なり。さればみな見仏なり。 願成就(がんじょうじゅ)せば、よも後世(ごせ)はあしからじ。千日別時の時、ひつじさるの方に常に香(こう)をかぐとありしなり。

見仏の種種相

三昧発得(さんまいほっとく)は一種類に限られるものではない。同時にその体験により目の前に現れる様相も一種類ではなく様々(さまざま)である。
ある時は阿弥陀仏を見奉ることがあっても、極楽浄土は目(ま)の当(あ)たりにする事はないであろう。ある時は極楽浄土を見奉ることがあっても、御仏の姿は拝見できぬかもしれない。
またある時は極楽と阿弥陀仏をともに目にすることができよう。
『双巻(そうかん)経(ぎょう)』の中の三(さん)輩段(ぱいだん)の下輩(げはい)を説くところには「夢に見る」のであると説示する。『華厳経』では「光明を放つを見るを見仏という」と説示する。
光明を見る者あり、紫雲(しうん)を見るものもある。極楽世界にある樹木、林、池、蓮華、鴨や雁やおしどりなどの鳥々、妙なる芳香は皆ことごとくかの阿弥陀仏の現した様相である。したがってこれらを見るは全て見仏である。三昧発得の願を成就すれば、よもや後世が悪しき境涯となる事はないであろう。千日の別時念仏を修する時には、ひつじさるの方角に常に香り漂う不可思議ありとも言われている。

『双巻経』
『無量寿経』のこと。上下二巻に分かれる為。

『華厳経』
東晉佛馱跋陀羅(とうしんぶっだばたら)訳『六十華厳』。