和尚のひとりごと№1208「聖光上人御法語後遍十五」
和尚のひとりごと№1208「聖光上人御法語後遍十五」
徒(いたず)らに夜(よ)を明かし徒らに日を闇(くら)し、空(むな)しく月を過(すご)し空しく年を運ぶ。後生(ごしょう)に於いて一分(いちぶ)もその馮(たの)み無し。何に依りてか仏の憐(あわ)れみを蒙(こう)むらん。 その故は夜六時に於いて枕を傾(かたむ)くると雖(いえど)も、一時(ひととき)も起きることなし。日(ひる)六時に於いて妄語綺語無益(もうごきごむやく)の事を談ずと雖も、一称南無(いっしょうなむ)の言(ごん)無し。
かくの如きの人をば阿弥陀仏、我が為に信ある人と何ぞ之を照見(しょうけん)し給うべきや。ただ仏も此の人をば我が為に信心(しんじん)無きの人と之を見給うべし。我が為に奉公無きの者なりと之を見給うべし。是の人はこれ自身の為にも無慚無愧(むざんむき)の人と為すべきなり。また衆生の為にも慈悲なきの人なり。是れを自損損佗(じそんそんた)と為するなり。甚だ畏(おそ)るべし、甚だ疎(うと)んずべきなり。その数遍(すへん)の人は一称南無の度(たび)ごとに阿弥陀仏の見参(けんざん)に入る。
三万六万等(など)の人は一日の内に三万六万度(たび)、阿弥陀仏の見参に入るなり。一念の行(ぎょう)は全く以て然らざるなり。また一念の人は信心深きが故に、数遍を申さず。数遍の人は信心浅きが故に一念を信ぜず、数遍を申すと云うこと甚だ以てその謂われなし。仏語(ぶつご)を信ずる故に、数遍申すなり。
訳
仏の見参に入る
無駄に夜を明かし、無駄に日をくらし、むなしくひと月を過ごして、むなしく年を明かす。これでは後生においては全くたのむべき拠り所がない。何に依って御仏の憐れみを蒙ろうというのか。何故ならば夜の六時においては枕に頭を沈めてやすもうとするが、その間ひと時も目覚めることはなく、昼の六時においては嘘偽りや虚飾のことばで無用な事柄について話すが、一声も南無と口に出すことさえないからである。
このような人について阿弥陀仏が、この人はわが身に対して信心ある者であるとして、これを照らし御覧になるようなことがあろうか。ただ御仏もこのような人についてはわが身に対する信心なき者であると御覧になるだけある。わが身に仕える者ではないと御覧になるであろう。
このような人については自分自身に対して罪を犯しても恥じらうことなき人であると見るべきである。同時に他の衆生に対しても慈悲の心が持てない人である。これを自らを損ない、他も損なうさまであるというのである。これはただ恐れるべき、忌み嫌うべき事態である。日に数遍(すへん)の念仏を欠かさぬ人は、その一声(ひとこえ)ごとに阿弥陀仏にお目にかかっているのである。日に三万遍、六万遍と称える人は、その日のうちに三万回、ないし六万回と、阿弥陀仏にお目にかかっているのである。一念の修行によっては全くもってそうはならない。また一念を奉ずる人は信心が深いが故に数を称える必要がなく、数を称える人はその信心が浅いが故に一念を信ずることができずに数遍称えているのだなどという事は言われなきことである。仏の言葉を信ずるが故に数を称えるのである。
語句の説明
六時
一日を六時に分けるのはインドに由来する。この場合は一日の夜半分と昼半分をそれぞれ六時と呼んでいる。