和尚のひとりごと№1195「聖光上人御法語後遍二」

和尚のひとりごと№1195「聖光上人御法語後遍二」

弁阿(べんな)が義は尋常(じんじょう)に三種あり。一つには道場に入らず浄衣(じょうえ)を着(ちゃく)せず、日を限らず、時を限らず、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)を簡(えら)ばず、時処諸緑(じしょしょえん)を論ぜず、世の中の男女僧尼(なんにょそうに)の日料(にちりょう)の念仏三万六万申す、是れなり。
二つには三万六万尋常に申し居たる人が、別時(べつじ)の念仏申されと云いて、道場を洗い浄(きよ)め、我が身を清浄(しょうじょう)にして、一日も七日も余言(よごん)を交(まじ)えず、不断(ふだん)に南無阿弥陀佛南無阿弥陀物と教(きょう)の如く説の如く申す、是れは尋常の中の別時なり。また一度(ひとたび)する人もあり、二度(ふたたび)する人もあり、三度(みたび)する人もあり、人に随(したが)いて替(か)わるなり。 また日別(にちべつ)にする人もあり。
三つには発心(ほっしん)より巳来(このかた)、命終わるまで月に一度別時する人もあり。此(かく)の如(ごと)くして死するまで月に一度の別時をし、いたる人もあり、また日に一度時を定めて何ん時にてもし、いたる人もあり、或いは又年に一度する人もあり、正五九月(しょうごくがつ)に三度する人もあり。
尋常の念仏日料(にちりょう)のほかにかかる別峙する人もあり。 これぞ善導の或いは一生を尽くしての文(もん)の心(こころ)なり。 また相続無間(そうぞくむけん)に一期(いちご)する人もあり、最上根(さいじょうこん)の人なり。

 

尋常行儀の三種

弁阿(べんあ)の考えでは尋常行儀に三種の別がある。一つには道場に入らず、浄衣を着せず、日取りも決めず、時間も限らず、行住坐臥を選ばずに、時間と場所についてとやかく論ぜず、世の男女、僧俗を問わずに日々の勤めとしての念仏を三万遍、六万遍と称える、すなわちこれである。
二つには三万遍、六万遍と日々称えている人が、別時を設けて念仏を称えずにおられようかとの気持ちで、道場を浄め、わが身を清浄にして、一日ないし七日と念仏以外の雑談を交えることなく、絶えることなく南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛と教えのままに、説示のままに称える、これは尋常の内の別時である。
この別時をひとたび行う人もいれば、ふたたび行う人もいれば、みたび行う人もあり、人によって異なっている。あるいは日を分けて行う人もいる。
三つには発心を発こしてより命終わるまで月に一度、この別時を行う人もいる。このように死を迎えるまで月に一度の別時を行い往生へと至る人もあり、あるいは日に一度時間を定めて、いかなる状況でもそれを行って往生に至る人もあり、あるいは一年に一度行ったり、正月と五月と九月に行う人もいる。
尋常の日々の勤めとしての念仏の他に、このように別時を実践する人もいる。これこそ善導大師が仰る一生を尽くしての一文の意(こころ)に従ったものである。また念仏の相続が絶えることなく一生涯にわたる人もいるが、これは最上の根を具える人である。