和尚のひとりごと№1182「聖光上人御法語前遍二十」

和尚のひとりごと№1182「聖光上人御法語前遍二十」

安心疑心(あんじんぎしん)と云うは、念仏ばかりにては往生ほどの大事をばいかが遂(と)ぐべき。わずかなる六字の名号(みょうごう)の童部(わらわべ)までも是れを知らぬはなし。智者学匠(ちしゃがくしょう)めでたき人人こそ往生はせんずれと疑う。是れ往生せぬ疑心なり。是れを安心の疑いというなり。次に起行(きぎょう)の疑心と云うは、念仏は決定往生の行(ぎょう)なりと信じての上(うえ)に、凡夫(ぼんぶ)なれば我が身の悪(わろ)きについて疑うなり。疑(ぎ)と云うとも、日行(にちぎょう)をばかかず、随分(ずいぶん)の止悪修善(しあくしゅぜん)をもはげみて願力(がんりき)をたのめば往生するなり。
また是れについて往生せざるあり。我が身のわろきについて身を疑うほどに、やがて行にとおざかりて、随分の悪をも止(や)めず、往生の心もうすくなりて、厭心(えんしん)も疎(そ)なれば、此れ疑い往生せぬなり。

 

安心と起行の疑い

「安心疑心(あんじんぎしん)」というのは、念仏だけで往生の大業を遂げることができるのか。わずかな六字の名号などは歳至らぬ子供でさえも知らぬ者はいない。智慧ある者や学者たちといった勝れた人たちこそが往生を遂げるのではないかと疑うことである。
次に「起行疑心(きぎょうぎしん)」というのは、念仏はこれによって必ず往生できる行であると信じた上で、凡夫であるわが身の罪業(ざいごう)深きにより疑いの念を抱くことである。
ただしそのように疑っていても、日々の念仏行を欠かさず、悪をやめ善を心掛けるのを相応に励み、仏の本願力をたのめば往生できる。
また「起行疑心」でも往生できない場合がある。わが身の罪業深き故に往生までも疑うようになり、念仏の行からも遠ざかり、相応の悪行を抑制することなく行ってしまい、往生への心も希薄となり、穢土(えど)を厭う気持ちも疎(おろそ)かとなれば、これは疑心故に往生できないということなのである。