和尚のひとりごと№1173「聖光上人御法語前遍十二」
和尚のひとりごと№1173「聖光上人御法語前遍十二」
第二に深心(じんしん)とは深き心なり。この念仏は疑いなく決定(けつじょう)して往生するぞと信(しん)を取って思い定むるなり。その故(ゆえ)は阿弥陀仏の発(おこ)しがたきを発し給える念仏往生の本願なるが故なり。 但し究竟(くきょう)の智者(ちしゃ)たちの中にも疑いをなす人あり、それも道理なり。 凡夫(ぼんぷ)なるが故に、況(いわん)んや愚かなる無智(むち)の類(たぐい)いは疑いを成(な)さん事うちまかせたる理(ことわり)と覚(おぼ)ゆ。但し念仏を習うと申すは法を習うなり。この深心をだに習いとりぬれば、三心(さんじん)は自然(じねん)に具(ぐ)すと習うなり。
訳
第二に深心とは深い心である。今称えるこの念仏は疑いをはさむ余地もなく必ず往生するのだとの信心を持って思い定めることである。
それは阿弥陀仏が通常は発願し得ないような発願をされた念仏往生の本願であるからである。そうは言っても智慧を極めた者たちの中にも疑いを持つ人がある。それもまた故なき事ではない。それは所詮(しょせん)は凡夫であるからであり、ましてや愚かで智慧のない者ような人たちが疑いを持つのは致し方のない道理だと思う。
ただし念仏を習うとは仏法を習うことなのである。この深心さえ習い修得すれば、三心はおのずと具足するのであるとして励むべきである。