和尚のひとりごと№1162「聖光上人御法語前遍一」

和尚のひとりごと№1162「聖光上人御法語前遍一」

浄土宗鎮西派第二祖の聖光上人は応保二年(一一六二)から嘉禎四年(一二三八)の人。諱(いみな)は弁長、字(あざな)は弁阿、号は聖光房。鎮西上人、筑紫上人、善導寺上人とも。

 

 

 

第一 浄教に帰入
それ以(おもんみ)れば、九品を宿と為(せ)んには称名を以て先(さき)と為(な)す。八池 を棲(すみか)と為んには、数遍(すへん)を以て基(もとい)と為す。念仏とは、昔の法蔵菩薩の大悲誓願の筏(いかだ)、今の弥陀覚王(みだかくおう)の広度(こうど)衆生の船、これすなわち菩薩の利益衆生の約束、これすなわち如来の平等利生(びょうどうりしょう)の誠言(じょうごん)、尤(もつと)も馮(たの)もしきかな、尤も真(まこと)なるかな。所以(ゆえ)に弟子昔 は天台の門流(もんりゅう)を酌んで円乗(えんじょう)の法水(ほっすい)に浴(よく)せしかども、今は浄土の金地(きんち)を望んで、念仏の明月(めいげつ)を翫(もてあそ)ぶ。ここを以て、四教三観(しきょうさんがん)明鏡(めいけい)をば、相伝を証真に受く。三心五念の宝玉をば、禀承(ほんじょう)を源空に伝う。
幸いなるかな、弁阿血脈(けちみゃく)を白骨(はっこつ)に留め、 口伝を耳底(じてい)に納めて、 たしかに以て、口に唱うる所は五万六万、誠に以て心に持(たも)つ 所は、四修三心なり。 これに依って自行を専(もっぱ)らにするの時は、 口称の数遍(すへん)を正行と為し、化他を勧(すす)むるの日は、称名の多念を以て浄業と敎う。

 

よくよく考えてみるに、九品(くほん)の蓮台(れんだい)を住(すま)いとするためには称名を優先とすべきである。八種の功徳水(くどくすい)をたたえた池を住処(すみか)とするためには、数編の念仏が根幹となるのである。
念仏とは、昔は法蔵菩薩が大いなる慈悲の誓願とされた筏(いかだ)であり、今は目覚めたる阿弥陀さまが広く衆生を度(ど)せんとされている船である。これはすなわち法蔵菩薩が衆生を利益(りやく)しようと約束されたことであり、阿弥陀如来が平等に衆生を生まれさせようとする誠(まこと)のことばである。まさしく最も憑(たの)むべきことばであり、まこと真実のことばである。
それだからこそ法然上人の弟子たるわたくし聖光は、かつては天台の法門を受けて、円満なる法華一乗の教えに浴していたが、今では浄土の金色(こんじき)の大地を望み、念仏の明らかなる月を楽しんでいる。
このように四教(しきょう)、三観(さんがん)の曇りなき鏡の如き天台の教えは、證真(しょうしん)和尚より相伝し、三心(さんじん)、五念(ごねん)の宝玉の如き浄土の教えは法然房源空上人(ほうねんぼうげんくうしょうにん)より受け継いだのである。
まことに幸いなるかな。わたくし弁阿(べんあ)は浄土の教えの血脈(けちみゃく)を我が白骨に刻み、浄土の口伝の教えを耳の奥底にまでうけとめ納め、確かなることに口に称えること五万遍から六万遍、また偽りなき誠の心において保つものは四修(ししゅ)、三心(さんじん)である。
これらによって専(もっぱ)ら私自身のため自利の行を修するときには口称(くしょう)数遍をもって正しき行となし、他に勧(すす)め利するときには、称名多遍をもって浄らかなる正しき行為であると教えているのである。

九品の蓮台
極楽浄土に化生(往生)する蓮の台に、上品上生から下品下生まで九種の別があるとされている。

四教、三観
四教は天台大姉智顗による教判で分類される蔵・通・別・円の教え。
三観は台止観の基本となる観法。

證真
鎌倉初期の代表的な天台学匠でのちに延暦寺総学頭。法然上人の学識を認めた逸話が残る。また聖光上人が比叡山で修学した際の師匠にあたる。

三心、五念
三心は、阿弥陀仏の浄土に往生する者が持つべき三種のまことの心で、至誠心・深心・回向発願心のこと。
五念(五念門)は、阿弥陀仏の西方浄土に往生するために実践すべき五つの行法。

四修
念仏を実践する仕方、四種の態度を決めたもの。